はてな村の鳥日記

ダイアリじゃなくてブログだけれども。

 ちょっとしんみりとしてしまった。

 「彼女からの手紙を勝手に処分した毒親」の話。

 それ自体は、いろんな罵倒の言葉を連ねて、なんてひどい親なんだ! と思えてしまう。鴻上尚史さんの回答も素晴らしくて、ブッコメ見て、読む人読む人でいろんな色に変わるのもまた面白かった。

 

 まあそれはいいんだけど。

 そうなってしまった母親のことを考えたらちょっと、罵倒する言葉がなくなってしまった。

 どうして毒親って呼ばれる人が多いんだろうなって。不思議じゃない? 他人には異常な行動のように思えるのに、自分ではやっちゃうって。それって、きっと「それが正しいのだ」と思わせる要因があるんだと思うの。

 例えば、過去に、それが正しいと感じるほど「子どもの問題はあなたの問題よ!」って言われてきたのだとしたら。「あなたがちゃんとしないと」って言われ続けてきたのだとしたら。

 現にそうじゃない?

 ずんずんぎーなんてすごかったじゃん。1歳なら躾でなんとかできます! みたいなやつ。もちろん、あの人の場合は、またちょっと違う問題もあって……それはそれで今回は脇に置かせてもらって、またいつか書くことにして……。

 

 子どもに何かあればすぐに母親の問題が出てくる。あれは、小さい頃の話で…… って言いたくなるけど、それって何歳まで? どこまでが親の責任?

 子どもの頃のルールって、ずっと不思議なんだけど、こっそりと制限がなくなっていく。ずっとダメダメ言われていたことが、何も言われずに許可されてた、って感じたの。きっとまだダメなんだと思い続けていること、実はたくさんある気がする。もう大人だから、自分の責任で自分で決めていいのにね。

 

 それって子供側だけじゃなくて、親の側もそうなのだとしたら。

 もしかすると、かの手紙捨て女は「子どもの責任は子どもが結婚するまで」が自分の責任下にあると思っているのかもしれない。その先の「孫の顔みるまで」「死ぬまでずっと」かもしれないけど、少なくとも子の結婚が自分の責任問題だと感じているのは確かだろう。

 

 そんな風に「マトモな人生を送らせる」というのが、母親の役目になっているみたいに感じる。

 でも”マトモな人生”って何よ、と。

 その指針にしてるのが、頭いいっていわれる学校に入ったり、たくさんお金もらえる所に就職できたり、良い相手と結婚できたり、賢い子ども産んだり…… ということなのではないだろうか。

 頭いいから頭いい学校に入る、は、まだわかる。大学とかは何となく偏差値で決まってしまうイメージがある。そして、学生時代にきちんと勉強していたことがマトモであるならば、頭いい大学に入るのはマトモと言え……なくもない。

 でもそれ以降は別に正しくない。たくさんお金がもらえた方が、もらえないよりは良いのは確かだけど、それで心身を害したり、悪いことしちゃったりするのは、それってマトモ? って思う。

 良い相手と結婚できたり、賢い子ども産んだりも、もーそれ、運の世界だし。

 きっと、もう、親の責任はほとんど関係ないかもしれない。少なくとも、親が努力して、良い相手と結婚できる! とか 賢い子ども産める! とかは、ちょっと心配になってしまうレベルだ……。

 

 でももし、そのゴールに向かって走ってたのだとしたら……。

 

 過去のやっちったことを責められることほどつらいこともないよな……。

 きっと手紙捨て女は、その時は、手紙捨てるのがベストだと思っていたのだろう。ほら、あるじゃん。子どもの交友関係をコントロールする話。「あの子と遊んじゃダメ」とまでいわなくても、「悪い子と遊ばないように、私立に行かせます」みたいなことが、子育ての世界だと常識のように語られる。

 その延長線上にあるなら子どもの恋人との関係だって…… と彼女は思ったのかもしれない。

 それが若さへの嫉妬だったり自分が自由に生きられない鬱憤だったり、様々な自分の中の負の感情でマシマシで背中押されてしまったのかもしれない。

 

 ってことを考えるとさ。もうちょっと母親も自分のために生きられればいいのになって思うの。20代30代40代なんてすごく良い年齢じゃん。だからこそ、家事に子育て、仕事も! なんてハードなこともできちゃうんだろうけど。

 時々、お前が子どもか! と思うような批判もあるじゃない。母親なのに飲み会いくなんて とか もうお母さんなのにおしゃれがどうこうとか。その間面倒見る人いるならよくない? 子どもいない時なら別によくない?

 そんなん無視しろ っていうのは簡単だけど、言われた方ってすっごくすっごく苦しいだろうな。そして、苦しみはなかなか消えない。それで、誰かの言う”子どものために”ちょっと我慢して、自分も”子どものため”を信じ始めてしまって、そういう理不尽さが、ちょっとずつ積み重なっていく。

 

 その結果が毒親だと、つらいよな……と。受け入れられないだろうな、と。

 

 鴻上さんの回答でよく出てくるフレーズで「自分の人生を楽しみましょう」っていうの私好きなんだ……。

 

 手紙捨て女はきっと、後悔もしていると思うの。

 でも過去にやっちまったもんはもうどうしようもない。何をしても、何か言っても、手紙も戻ってこないし、彼女も返ってこない。息子のつらさも不信感もなくなるわけじゃない。

 それをわかってるから正当化したいんだろうなと。「正しかったよ」って言って欲しかったのだろうなと。あるいは、どうにか、断ち切りたかったんだろうなと……

 ずっと一人で考え続けていても、或いは、ネットでめっちゃ炎上して叩かれても、心からの自分の言葉で「あの時はごめん」にはきっとたどり着けないんだと思う。

 

 それよりも鴻上さんの言うとおり、自分の人生を生きて、いっぱいいろんな立場になって、色んな想いをして、その時にふと「あっ あの時の自分、すごくダメだった」って思う日がくるかも知れない。それを受け入れられる準備ができるかもしれない。

 あるよね、たまに。あー あの時の人、きっとこう思ったかもしれない、って自分の番になって思うことって。

 気がつかないところで、意外と自分も他人の尻尾踏みまくってる気がするの。

 こうしてる今も……。