たどりつけないか
家の近くに内科さんがある。
しかし、初見ではほぼたどり着けない… たどり着け内科さんなのである。
大通りから見えない。看板もあるんだけど、ちょっと変な場所にあって、『ここ曲がってすぐ』じゃないところにある! さらに、私の説明能力の低さも相まって、この街は迷宮と化すのだ。
あの内科さん、きっとボスかなんかがいるんだと思う。ボスがいるんじゃ内科さんなんだと思う。
そんなわけで、内科さんに行く時は、マップ必須。
必要ないかもと思っても持って行く勇気も必要じゃないか。
あめいじんぐ
伊集院光とラジオと、のメッセージテーマ「動物園の話」とはちょっと違うんだけど思い出した話。
小学生の頃、遠足で東武動物公園に行った。その日はちょーどしゃぶりで、見て回るどころじゃなくて、ちっちゃい動物だっこできるスペースで過ごした思い出くらいしかない。
中学生の頃は、磐梯山に登って、登ってる途中で雨が降ってきて、頂上まで行けずに引き返した思い出が。
思い返してみると、遠足は大体雨のことが多いような… 今まで一度も思ったことないけれど、もしかして自分…いやいやそんな雨女とか雨男とかの非科学的なもの信じないし。
ちなみに、雨だといいなと心の底から祈る、運動会やマラソン大会の時は快晴です…ヾ(´ー`)ノ
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タイトルは、サッカーでコロンビアに勝ったってニュース見て思った一言。
ちょうどね、月曜日の分聴き終わったところで、新井ちゃんの「If SAMURAI JAPAN beats Colombia, will you surprise?」で、そりゃー Amazingだわー って思ったのだった。
まさに、Amazing 感服 恐れ入った。昨日見かけた誕生日命日を望む増田のブッコメにも書けばよかったかな。明日日本戦だよ、W杯みようぜって。思いついたけど、色々考えてたくさん迷って結局スルーしてしまったのだ…。京都在住のその彼女、地震の被害は大丈夫だったかしら。思い直してくれたかな…。
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マンガで正義を学ぶ話をみて、ふと思い出したことがあった。
アレルギーの表現について。
昔の漫画では、アレルギーって、鳥肌のように腕にボツボツして、太字で「ぞわぞわー」と表現されていたように思う。
今のように、死に至ることがあるって認識がなく、単なる好き嫌いの誇張した表現の1つと思われている時代だった。
それが少年漫画や少女漫画に載っていた。
今でこそ、それは誇張された表現だなと思うことができるけど、当時の人たちはそれを信じるという意識のないまま、信じていたかもしれない。
そのまま、今もなお、そのアレルギーの情報からアップデートされていなかったら…。よく家庭板で見る、アレルギーを理解してくれない人たちは、そういう、知識がアップデートされていない人なのかもしれない。
あるいは、自分の中でも、読んでいた漫画の影響を気づかないうちに受けている気がする。恋愛観とか価値観とか…もちろん正義もまた。
また、その一方で、新しい知識、知らない世界を広めているのも漫画だと思う。だから今も読み続けてしまうんだけども。
もちろん、漫画に限らず、本、テレビ、ネットのものでも、表現されたものは、後々まで大きな影響力を持つ、自分が気づかないうちに。
自分の知識が間違っていたことを認めて、古い情報をアップデートするのも大事。
あと、かつてそういう時代も忘れちゃいけないなと思う。
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アメフトをよう知らんせいかもしれないけど、DLがQBを狙うというのは(つまり特定の選手を狙い撃ちしろという指示を出すのは)普通のことなのかな。
こう、営業活動を頑張ってほかの会社を潰すぞー! っていうのと、営業活動を頑張ってA社を潰すぞー! ってのじゃ全然意味合いが違ってくる。前者なら、よくある意味の鼓舞する意味かもしれないが、後者だとA社に対し危害を加える意味となってもおかしくないと思う。
そんで、齟齬があるなぁって思っても、修正しなかったのか。
コーチが言うには、いつもと違うプレイをして欲しくて指示したことだと。でも、いつもと違う、が度を超えてしまったわけだけど。止めなかったってことは、そうだその方向性だぞ って容認したと見られても仕方がないだろうなと私は思う。
反則とかって気にしないもんなの?
何回も反則って言われても、注意して見ないもんなの? あれは異常な事態ではなく指示通りであり、予想されていた通りのプレイであったから見なかったの? 逆にあえて見ないようにしてたの? 自分の責任になっちゃうから。
個人的には、本当の意味は、試合中、バレないように怪我させる意図での指示だったんじゃないかなぁと想像してしまう。
もし試合中だったら、故意に傷つけているものだとバレるようなものではなかったら、むしろ英雄扱いだったのではなかろうか。
そして、それなら常習的に行われているのかしらと。
ただ、実際は、試合中とは言えない時間帯で起こってしまった。だから、監督とかコーチは責任負えないと逃げたがるし、コミュニケーション上の齟齬を押したいのだろう。
でも、バレたら、ルールを守ることは当たり前を主張して、意味が違った、知らなかったってのは酷すぎる。けしかけて知らんぷりするのとどう違うのかと。
また、1プレイまでに、という時間の制限が彼を焦らせたのもあるんだろうなと想像する。できなかったらどうなっちゃうの? という。挑戦して成長する場ではなく、恐れて萎縮する場になっていたのではないだろうか。
色々想像してきたけど、結局、意思疎通ができてなかったんだろうなというのは感じる。両者とも素晴らしい選手と言いつつ、それが彼には通じてなかったんだもの。別な指導者だったらと思わずにはいられない。
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こんな形でアメフトが知れ渡るのもちょっと有馬さん的には残念なことだと思ってるだろうな。
有馬さんは、被害者と同じ大学、同じポジションで活躍されていた元選手。その後TBSに入社して、アナウンサーとして活躍。アメフトへの熱い思いが捨てきれず、退職し、アメリカへ渡る。帰国後、フリーアナウンサーとして活躍する一方、日本のアメフト界を盛り上げようと努力している方なのだ。
今回の件で、少なくとも2人の若い選手がアメフットをやらなきゃよかった、やめたいと思うほどつらい思いをしてしまった。
私は色々と考えてしまう。
ちょっと違うけど、私が通ってた高校は野球で有名な甲子園常連校だったのだ。
彼らは、スポーツ推薦といって、中学時代から野球で活躍してる子たち。その子らでも、必ず1軍に入れるとは限らない。同じ学年で、スポーツ推薦(野球だけじゃないけど)だけのクラス3つくらいできちゃう学校だから。それをスポクラ(スポーツクラス)って呼ばれて、一般のクラスとはほとんど交流なかった。
交流というのは、例えば、授業で他のクラスと合同になることがあったと思うけど、それも、彼らだけでできてしまう。
イベントごとも部活の大会があったらそっち優先だし。
あと、地元が遠い子が多いので、それから、朝から晩まで部活なので、スポクラは寮だった。(他の子は、同県、隣県くらいの、地元ばっかりなので、通学。)
同級生でありながら、どこか別世界な感じがしていた。
そして、彼らは、その後の人生も、大学や就職もスポーツ推薦ならば、そういう生活が続くのだろう。
彼らの、色んなことが野球優先の人生に、最適化されていたんだよね。
怪我させてしまった彼もそうだったのだろうかと考えてしまう。
そんな指示聞くくらいなら、試合出なくたっていいじゃん部活やめりゃーいいじゃん、って思うのは簡単だけど、彼は本当の意味で、ほかの人生が考えられないほど、過去も未来もそのスポーツに縛られていたのではないだろうか。会見中、彼は、してはならなかった、強い意志を持つべきだったと言っていたけど、あの時、そういう道を選べたか、という問いには、答えられなかった。監督が絶対的な存在であったから逆らえなかったとか、そういうものもあったかもしれないが、そのスポーツをやらない人生を考えられなかった環境も、その一因ではなかっただろうか。
人によっては、その強制力が強くするのだ、ともいうかもしれない。むしろ、それがなくなってしまったら成り立たなくなるとすら考えるかもしれない。
そういう世界にいたことがない私にはどうあるべきかはわからない。でも、もう二度と彼のような立場の人が現れないようにあって欲しいと願う。
ほんと、泣きそうになるくらいつらい事件だなと思う。
ただ、個人的には、怪我をさせた彼について、同情はしているが、どんな事情があったとしても、決してしてはならないことをしてしまったと思っている。
彼は潔く謝罪したとは思うし、あの年でああいう場に立ち向かった姿には本当に恐れ入るが、それ以上に称えるべきなのは、やらないと出してやらないぞという脅しに屈しなかったり、監督やコーチはああいうけど、お前やるな、一緒に戦うからやるんじゃないぞ、って止めたりした、表には出てこなかった勇敢なものたちだろうなと思う。
彼を止めてくれる人、一緒に闘ってくれる人がいなかったり、これまでの人生で、そういう強さを教えられなかったということが本当に残念なことだと思う。
スポーツがそういう類の強さを身に付けるものであって欲しかったな、と思うのは、多分、私の勝手な理想かもしれない…。
きっと我らは勝手に正しい道は選べない。正しい道を選んで讃えられたり、評価されたり、育つ土壌があって、正義は育つのだと思う。
みんな悪い
"諸問題と同じ。もし問題が起こったら、そんなの選んだお前が悪いって言われる構図、それに怯えてみんな一歩が踏み出せない。"
って、スペインで、シッターさんに頼んで楽になったという話を読んで、ブッコメに書きかけた。書き手のなぜ日本では?という問いに対して思ったことだ。
で、お前が悪いとは言えない人だけが守られる。
けど、その「お前が悪い」は、周りの人に転嫁される。
と考えて、ふと、我が子を加害者にしないためには、のお母さんたちを思い出したのよね。
そのまとめったー見た時は、「できないだろ」ってばっさり切り捨てちゃったんだ。でもよくよく考えると、そうじゃなくて、本当は不必要な「お前が悪い」に怯えていたのではないだろうかと。
悪いことしたら、悪いことした人が悪いのだ。そりゃあね。けど、それ以上に、みんな犯人探しをしたくなっちゃう。育て方が悪かった、環境が悪かった、教育が悪かった、お酒が悪かった、病気が悪かった、って結論づけたらなんだか安心できちゃう。
不可解な事件の犯人はある種の人達であって欲しいように。
けど、安易な属性批判は最終的に日本が悪い、人類が悪い、になっちゃうように、結局「お前が悪い」の犯人探しの結末は、みんな悪かった、になっちゃうのだ。
先生も悪かったし、みんなも悪かった、でこの件はおしまいね、でいいのかな。
あるいは誰かの首切れば次は起こらないの?
みんな何もしなくなるだけじゃん。
だから、もう悪いの探すのやめようぜ。って思うのに…。
日本が悪い、時代も悪い、人間悪い、みんな悪い、唯一私が善良なのだ
と信じたがる私が悪い。それでも世界は変わらない。良くも、悪くも