はてな村の鳥日記

ダイアリじゃなくてブログだけれども。

クソリプの話

 自分は結構的外れなコメをしがちだと思う。自覚してるなら直せよって話だけどまあ聞いて欲しい。

 自分がOBする一番大きい理由は「書きたいことを先行しすぎる」ところにあると思う。

 読むじゃん、思うじゃん、考えるじゃん、コメ書くじゃん。

 考える時間が長すぎると、どんどん方向がズレていくみたい……。

 

 特に、笑おうとしたり、怒ろうとしたり、感情的になるとズレていく感じがある……。

 例えば、「コイツすっげえ変www」みたいに晒し上げされたものは、もしも変じゃなくても変なところを見つけ出そうとしてしまう。

 「ひどい目に遭いました!」「つらい思いしました……」みたいのも状況を精査せずに感情移入しがちになる。

 この辺ははてなでとても鍛えられた。

 最近では、感情的なものを読む時は、ちょっと警戒する癖がついている。

 

 で、「それひどすぎる!!!」とか「つらかったね……」と並ぶコメの中で、別な方向から意見を書くとそれだけでも変な風に見えてしまう。

 それは、言われる立場になるともっとダメージが大きいのかもしれない。

 「ほんとに?」みたいなコメでも、「疑われた!」って思ってしまうこともある。そのコメの意図は、”疑問視”ではなくて、”現実とは思えない程ひどいことだね という共感”だったとしても。

 それで、最近は、増田のブッコメでもなるべく共感を書くようにしている。特に追い詰められてそうな物には。

 逆に、「もっとこうすれば!」とか「ここを直せば!」系を書かないように気を付けている。一つ一つはありがたい言葉でも、大量に集まると、苦しい……。

 そう思いながら忘れちゃうことも多いんだけど……。

 

 白熊先生のはてブだと少なくてもクソコメが多くて、Twitterだと1000超えてから~ の話は、きっと、何を辿ってきたかってことなのかもと。

 はてブは、10userくらいでいろんな人の目に入る気がする。もしも、だれかのブッコメを辿ってきてるとしたら、既に色のついた状態で読むことになる。

 そのブッコメが「こいつ変」だったらどこが変かを探しながら読むことになるだろう。

 

 Twitterの場合、みんなに注目されてます! って人がわざわざ拡散しにやってくるのが1000リツイートくらいなのかなと。

 Twitterの場合だと、連投してる1つに過激な言葉が入ってて、それだけ注目されることもあるのがちょっと困ったところだよね……。全部読めよ、と投稿者は思う。

 でも、読み手は、全部読みに来た訳じゃない。「これ面白い」なら面白いを求めて、「これ変」なら変な人を求めてやってくる。

 つまり、自分の感情を満たしにやってくるのだ。わざわざ否定材料を自ら探さない。

 

 自分はなるべくクソリプはしたくないと思っている。一回プギャーwした物が実は誤読してただけっていうのは、ものすごく恥ずかしいことだと思っている。

 「あ、あんたの書き方が悪いからぁぁぁ」って想いたくなるけど、自分何様だよ、と思うようなコメントして悦に浸ろうとした自分が完全に悪い。

 もう過去に何度も同じようなことをしてきた……。

 

 こういうことするな と自分で思うのは簡単だけど、みんなが完全に実行するのは難しいよね……。

 せめて、違う考え方や一見的外れであっても「あー そう考えるのねー」と思う余裕は持っておきたいなと……。

 盲信するということは悪い面を見なくすることで、叩きたくなるということは、良い面を見なくすること。

 

 なのだろうなぁと最近気がつきはじめている。きっと裏表なんだろうなと。

 

 そんなことない、ちゃんと悪い面も知ってる、良い面も知ってる、って思いながら「~ってことあるってことは知ってるけど」って言うんだけど、本当は、わかってはいない。それどころか、受け入れることを拒否すらしているんだと思う。

 

 そもそも、対象を好きになってるわけでも、対象を嫌いになっているわけでもない。

 その向こう側にある価値観とか象徴するものを、好きになっていたり、嫌いになっていたりするんだと思うの。

 

 と思ったのは、週刊誌による、新しい地図VSマツコデラックスの構図に踊らされかけた時だったんだよな……。

 脊髄反射的に、自分の中で、マツコデラックスに対するヘイトが高まったんだけど、あれは非常に良くなかった。本当に良くなかった。

 そもそもSMAPが解散した一因も、元々は、そういった盲信と叩きたいものの構図だったのではなかったか。派閥問題という真偽の怪しい問題を繰り返し繰り返し執拗に煽り続けた結果じゃなかっただろうか。直接の理由は別なものだったとしても。

 

 信じている心ってのは本当に操られやすいと実感したよね……。

 本当に駄目だね……。そもそも、自分が応援して信じてきているものにも、迷惑をかけてしまうところだった。

 一歩手前で、コメントもなにもしなかったけど、その時、もし、何かしていたら、今は、私はきっと、その時の行動をした自分を守りたいがためだけに、その補強していってしまったんだろうなと思ってる。その材料を集めたくなっちゃってたんだろうなと。

 いかに、マツコが許されざる人物であるか、と。

 例えば、今のN党VSマツコデラックスの構図でN党側の考えを盲目的に支持してしまったり、とかね。

 

 どうしても、その向こうに、自分が対立する正義にも、信じてる人がいたり、応援しようとする人がいたり、それに対する敬意を忘れてしまう。

 信じてるものを貶されたらやっぱり悲しい、お互いに。

 あと、自分が選んだ言動が間違っていたと認めたくはない、あんまり。

 個人的には、自分の現実に見たくない物が増えた時は、盲信や叩きたくなる傾向にある気がする。

 せめて、せめて、好きなもののことは、好きな要素だけで心を満たして生きていきたい……。

 本当は、幸せな事柄だけで人生を満たせれれば、いいのにね。

 一種の宗教なのですよ。丁寧な暮らしとかは……。

 こういう界隈の人たちは、ゆっくり丁寧に、とか、自然に優しい、とか、天然由来の成分の とかに惹かれる。

 で、時代を逆行しちゃう。

 ログハウスに住んで、薪ストーブにして、ホウキとチリトリ雑巾で掃除して、洗濯板使って手作り洗剤で手洗いし、玄米ご飯を鍋炊き、国産有機野菜の料理食う。

 別に、勝手に1人で昔にもどってりゃーいいんだけど、問題なのは、それ他人にも押し付けてくんだよね。ナンチャラ使うの良くないですとか、こうするべきです、みたいのを。

 そして、そこに商売しちゃう人が絡んできて、マルチみたいのになって、カルト集団みたいになってったりしていく。

 

 きっと、丁寧な暮らし教に入っちゃう理由って、その根底にある ”生きていく上での罪悪感” とかなんじゃないかなぁと思ってる。自然破壊とか絶滅危惧みたいなヤツ。

 よくニュースでもやんじゃん。そして、「我々も考えなければなりませんね(キリッ」とか言うじゃん。で、自分になんとかできないかって思って、身近なことに置き換えると、そういう丁寧な暮らし になるんだと思う。

 実際に貢献できてるかどうかは別として。

 

 でも、どれが本当に有効な方法なのかの線引きがものすごく難しい。例えば、「下水に油流さない」とかは正しいと思うけど、そこに「お魚さんの口に入っちゃうから」とか付くと途端に怪しい雰囲気になるよね。水道屋とかのイラストで、お魚さんが(×ヘ×)してたりすっからだよ!

 それならまだ、「下水詰まって掃除大変だから」って言ってくれた方がまだいい。

 

 

 その人たちにとっては、それが、正しいか正しくないかは、あんまり問題じゃなくて、レンジ使っても人体に影響ないです、とか、ナンチャラ食べても問題ないです、っていうのはその人たちにはあんまりわかってもらえない。

 逆に、「絶対ナントカするな!」ってタイトルで内容は、そういうのって問題だと思う気がする……っていう方を信じちゃう。

 

 だから、もう、あなたの宗教ではそうなのね、って思うしかないなって。

 まあ、オレの宗教も傍から見れば邪教なんだろうけどさー。

クラシックをアイドル感覚で語ってみる

 ピアノ(聞く方)にハマったんだけど、語り合う人もいないので、吐き出してみる。

 

 始めは、リストの『超絶技巧練習曲 第4番 マゼッパ』に取り憑かれたの。

 あの緊急地震速報みたいな、不協和音からはじまる、あれ。メインのメロディの裏でおどろおどろしい呪いの声みたいなのが流れるあの曲。

 しばらく、めっちゃ聴きまくってて、色んなピアニストのを聞いていて、超絶技巧を聞いてみる。

 同じくリスト先生の、『超絶技巧練習曲 第5番 鬼火』を、色んなピアニストで聞き比べしようって動画きいてたら、この人、めっちゃ綺麗じゃね! って思ったのが、キーシン先生。

 そこから、キーシン先生のを聞きまくって、そんな時に、珍妙 個性的な弾き方をするピアニストに出会う。

 それがランラン先生です。イマココ!


 マゼッパは、すごいよね…………。聞いてるだけで、あ、ちょーむずそうってわかる。確か、怒り新党の三大○○のコーナーで見た覚えがある。他は覚えてない。
 リスト先生の鬼畜さ(技術力)がわかりやすい曲だと思った。
 リスト先生は、元々、超天才ピアニストで、初見でほぼ全ての曲を弾いたという伝説がある。(唯一、弾けなかったのが、ショパンで、その後、めっちゃ悔しくて、ショパンの曲弾きまくってコンプリしたという。)
 しかも、マジイケメン。 名前もフランツだし。コンサートでは、女性ファンがいて……。しかも、ストーカーチックな人もいたらしい。

 15歳でパパ死んじゃって、ピアノ教師して生計立ててたんだけど、その生徒(確か年上の貴族令嬢)と恋に落ちて、でも、結婚できなくて、その後、別な伯爵夫人と恋して、愛の逃避行して、子ども3人できたけど、別れて、その後、別な恋人できて、でも、宗教的に離婚できなくて、なんやかんやあってー

 で生まれた『愛の夢

 これは、「こいつの技術マジぱねー!!!」からの「ただの技術厨乙www」してたショパン先生も、おーって思ってたんじゃなかろうかと少し思ってみたり。

 その『愛の夢』は、そんな好きでもないんだけど、キーシン先生の2つの『愛の夢』はどちらも美しい。

 少年時代の『愛の夢』は希望に満ちあふれて、きらきらしてて、青年時代の『愛の夢』は、しっとりしてて、聞いているとちょっぴり切なくなる。でも、美しい。

 

 キーシン先生の曲で好きのは、ショパンの『木枯らし』。ロシア出身だけあって、めっちゃ寒そう! でも済んだ音のキラキラが美しいの!

 

 ショパンの『革命』もよくて、何度も聞いてるけど……『子犬のワルツ』もよくてって、あれ、私ショパン好きすぎじゃない? 今気づいた!

 

 一番、キーシン先生の良さが出ているのは、私が今まできいた中ではムソルグスキーの『展覧会の絵』だろうかと。序章はよく聞くけど、他のあんまり聞いたことなかったの。けど、軽快な所は軽快に、ずっしりな所はずっしりと。ほんとに絵を見て回ってるような感覚になる。一人でオーケストラしてる。

 そんなキーシン先生のキラキラ済んだ音が好きなんだけど、それよりすごいなと思ったのは、ランラン先生のリスト 『ラ・カンパネラ』

 確かに動きはすごいのだけど、音色が更にすごい!

 『ラ・カンパネラ』自体は、色んなピアニストが弾いていて、今までは、フジ子・ヘミング先生弾かれる重厚な曲のイメージだった。

 キーシン先生の『ラ・カンパネラ』は、もっと軽やかに弾いていた。特に、キラキラが綺麗。

 ランラン先生の『ラ・カンパネラ』は、キーシン先生のキラキラ部分が、なめらかなカーテンのようで、それがまた綺麗だと思ってしまったんだよねー……。

 ランラン先生の他の曲も色々聞いてるけど、今のところこれ! って思うのに出会えてないのだ。けど、ランラン先生のは、聞いていて、見ていて、楽しい気分になれる。どの時も、楽しそうに弾いていて、特に、オケとやってる時は、その調和を全身で味わうように楽しんでいて、本当に、音楽を愛してるんだなと思った。
 落ち込んでる時に見ると元気出る。


 で、色々見ていて、ニコ動のコメもみて、これ好き、こっちの方が良い、というのを見ていて、お手本(楽譜)はあっても、それ通りであることが素晴らしいと言うわけでもないんだなと。

 実際聞いていると、キーシン先生もランラン先生もミスタッチはあったりする。一瞬、Oh…って思うけど、けれど、それでも、表現することを諦めず、努力を止めず、美しい音楽を紡ぎ出すチャレンジ精神は素晴らしく、それがわかるから、表現しようとしているものの美しさは、決して損なわれる訳ではない。

 

 ショパンの『英雄ポロネーズ』は、どれも美しくて、っていうか、多分機械打ちであろう、病院で流れてる英ポロがぐんにょりでさー リズムがちょっとおかしいのー! お前絶対英雄じゃねーだろ! って思うのー!! それに比べたら、イケメンだったり、重厚な将軍だったりしても、みんなちゃんと『英雄』なのだもの。プロだから当然なのかもしれないけどね……

 キーシン先生のは優美なイケメソ。それに対して、ランラン先生のは、明るくて豪快な英雄っぽい。

 

 そんなことを語りたかった、2019年。

 もう既に色々あって、ありすぎて、どういう面から見ても、きっと、忘れられない年になりそう。過去から見るとどんな年になっているのだろう。

 それでも、こんな時代に生まれて良かったと思う。

大丈夫生きてます。

 嵐の活動休止は意外にもショックだった…。

 その少し前の悦子さんもものすごくショックで…。

 2019年しょっぱなから、ショックなニュースがどすんどすんとありつつ、それでも、時間は流れていって…。

 ようは今の自分は少し世間から逃げてるのかもしれない…。

 また、ちょっとしたらはてな村に帰ってくる気もする。心が荒んできたら。

 あと、帰る場所があればねー。